BUHIXの日記

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シリーズ・哲学のエッセンス『メルロ=ポンティ』 〜彼は詩人であろうとして身体を発見した〜



 これは先日書いた記事の続きです。こちらの本のレビュー(というかノート)になります。記事タイトルは例によって同書の副題から付けています。



世界は「相貌」として現れる

 前回は、以下のようなことをお話ししました。

  • 詩人は「経験が生まれる瞬間、意味が生まれる瞬間」を言葉で捉えようとする。
  • 詩人の仕事は哲学者のそれにも似ている。
  • 部分が集まって全体になるのではない。最初に全体(布置)がある。
  • 普段われわれは「自分がどのように世界を経験しているのか」を考えていない。
  • それをメルロ=ポンティは「世界との間に帳が下りている」と表現した。



 その「帳」を取り払ってみれば、われわれが「始原において」世界をどのように経験しているのかということが見えてくるはずです(現象学で言う「還元」ですね)。では、世界は本当はどのようにわれわれの前に現れてくるのでしょうか。
 メルロ=ポンティは、世界とは「相貌」として現れてくるのだと言います。相貌とは当然のことながら「顔」や「表情」のことです。つまり、世界が「顔」として現れるというのです。
 顔には表情があります。表情は、その人の様々な感情を映し出します。そして、その表情を見た別の人にも、様々な感情を生じさせます。「あの人の笑顔を見てたら幸せになるな」とか、「あの人は怖い顔しちゃって嫌な感じだ」とか。それと同じようなあり方で、世界もわれわれの前に現れてくるのです。
 人間にとって「顔」を持たない世界というものはありません。どんな場所、どんな風景を見ても、そこに「顔」があります。そして、それを見た人間の方では「この場所は気持ちがいい」「この景色は何となく嫌な感じがする」という感情を抱きます。
 人間は常に世界の「顔」を読み取り、情動を生じさせているのです。人間が感じる「意味」とは、本来この「顔」と、それによって生じる情動のことです。前回の記事で「意味は全体から部分に配分される」とお話ししましたが、意味の配分が可能になるのはわれわれが世界の「顔」を読み取れているからなのです。
 世界に「顔」があるなんて単なる比喩に過ぎない、という反論があるかもしれません。それについて著者は「ならば世界とは根本的に暗喩的なものなのだ。世界は人間にとって常に暗喩として現れるということだ」と言っています。私(BUHIX)なりにもう少し付け加えると「われわれは人間である以上、基本的には擬人化した形でしか世界を捉えられない」ということでしょうか。そこまで言うと言い過ぎかもしれませんが。


そこに身体があるからさ

 では、世界が「相貌」として現れてくるのはどうしてなのでしょうか。それはわれわれの身体にそのような性質があり、世界が常に身体に対して開かれているからです*1。というわけで、メルロ=ポンティは身体論に関心を移します。
 と言っても、「頭で考えるのは無駄だから体の動くままに生きよう」とか、「身体的快楽を追求しよう」というわけではありません。メルロ=ポンティが言おうとしているのは、「われわれの意識は身体を介してしか世界と繋がれないのであり、身体のその役割を正当に評価せねばならない」ということです。別の言い方をするなら、身体に注目することで、われわれが世界と接触する瞬間、「経験」や「意味」が生まれる瞬間を言葉で捉えられるかもしれない、となります。つまり、身体に注目すればわれわれと世界との間にある「帳」を破れるかもしれないということですね。それこそが詩人の仕事なのでした。


 ……身体論はメルロ=ポンティ哲学の花形であるようですが、私の理解度がまだイマイチなため、ここではこれ以上触れません。書くのに飽きてきたし。 一応、私が書いてみようかなと思った項目だけ挙げておきましょう。

  1. 「知っている」とは「できる」ことである
  2. 身ぶりとしての言語
  3. 感覚の両義性、可逆性


哲学者は詩人になりうるのか

 最後にもう一度、副題に触れて本書は閉じられます。「経験が生まれる瞬間、意味が生まれる瞬間」を捉えようとする点で哲学者と詩人は似ているのですが、それでは哲学と詩は同じものなのでしょうか。結論だけ先に言うと「ノー」です*2
 なぜならば、哲学とは結局のところ「反省」によって経験や意味の始原に立ち返ろうとする営みだからです。勿論ただの反省ではなく、日常生活の中ではしないような「徹底的な反省」ではあります。しかし、どれだけ徹底的な反省ではあっても、「後から振り返る」という形でしか自分の経験を捉えられないことには変わりありません。哲学は「いま、この瞬間に」生起している経験を、そのまま捉えることはできないのです。そこが詩人の言葉との決定的な違いです*3
 後期のメルロ=ポンティは「反省」をもっと突き詰めて考えようとし、時間論へと関心を移していったようです。なぜ時間について考える必要があるかというと、上にも書いたように、反省とは「過去を振り返る」行為だからです。反省はいかにして可能か、そもそも過去とは何か、ということを考えようとすると時間論に行き着くのでしょう。全ての哲学が反省によって成り立つ営みなのだとすれば、「そもそも全ての哲学は時間論である」という極論も可能なのかもしれませんね。

*1:身体が世界に、ではなく「世界が身体に」となるところが深いですね。前回の記事でもお話しした通り、「客観的世界」という前提を疑っているのでこのような言い方になるのでしょう。

*2:この結論はメルロ=ポンティの考えによるのか、著者(熊野純彦)の考えによるのか分からないのですが。

*3:メルロ=ポンティは、そもそも「反省」とは逆説的なものであるから困難だ、とも言っています。「前反省的な状態(経験の始原)に立ち返るために意識的な反省を行う」という発想自体に矛盾が含まれるからです。