BUHIXの日記

ニワカから成長しつつ、FC岐阜やJリーグの素晴らしさを伝えていきたいなと思います。

シリーズ・哲学のエッセンス『メルロ=ポンティ』 〜彼は詩人であるために何を疑ったのか〜

 

 今回はこちらの本のレビューです。というか単なる要約練習かもしれません。書き始めた時点ではどれくらいの長さになるか分かっていません。一応、何を書くかというメモは取っていますが。

 記事タイトルは同書の副題「哲学者は詩人でありうるか?」から取っています。

 

 

副題の意味

 まず、その副題から読み解いていきましょう。「哲学者は詩人でありうるか?」とはどういう意味なのでしょうか。そもそも両者の共通点は何なのでしょうか。それが分からないと「哲学者が詩人となりうるか否か」も分かりませんね。

 ここで著者が言う詩人とは「経験が生まれる瞬間、意味が生まれる瞬間を言葉で捉えようとする人」のことです。人が自分の経験を言葉で表現しようとするとき、普通は「始原において」経験を捉えようなどとは思いません。出来合いの、既にこの世に存在する言葉を使って経験を表現しています。けれども、それは本当に経験を表現したことにならないのだ、と詩人たちは考えます。我々が「世界」と接触し、「意味」が生じるその瞬間こそが「経験」である。それを表現できねば、経験を表現できたとは言えない。そう考えるのです。

 この意味で、詩人が目指すものは哲学者の仕事に似ています。哲学もまた、「世界」や「経験」「意味」について考え、それを言葉で表現しようとする営みだからです。

 

詩人となるために何を疑ったのか

 哲学者の仕事も詩人の仕事も、出来合いの言葉(あるいは出来合いの考え方)から距離を取り、疑ったり批判したりしてみることから始まります。では、メルロ=ポンティが疑った出来合いの言葉・考え方とは何だったのでしょうか。

 それは「客観的世界」とか「科学的世界」という概念です(以下「客観的世界」とのみ呼びます)。と言っても、彼は科学を否定したり、怪しい神秘主義に走ったりしたのではありません。そうではなく、「客観的世界」を無条件の前提とする態度を疑ったのです。こういう言い方をしてもいいでしょう。「客観的世界」が「経験」より先に存在するのを当然とするような態度を疑ったのだ、と。

 彼が批判した「客観的世界」の概念とは、だいたい次のような性質を持っています。

  1. モナド的、モザイク的
  2. 単純な感覚への還元
  3. 条件が同じなら同じ感覚が生じる

 

 1.は、単純な「部分」が集まって複雑な「全体」が生まれるとする考え方です。ここでは「全体」が先にあるのではなく、独立した「部分」がモザイク状に寄り集まることで「全体」になるのだとされます。そして「部分」はわれわれに関係なく外的に、あるいは「客観的に」存在するものだと考えられています。つまりいつ観測しても同じように存在しており、視点によって見え方が変わるものではない、ということです。

 2.は、1.を人間の感覚に当てはめたものです。原始的な、つまり「単純」な感覚が綜合されることで、より複雑な感覚や高次の思考が生まれるのだ、という考えです。哲学の認識論という分野はだいたい1.や2.のような発想を洗練させてきました。

 3.も2.に似ていますが、いわゆる科学的世界観というものを人間の感覚に当てはめたものです。ここで感覚は何らかの刺激から生じるものとされ、刺激の原因は外的に(客観的に)存在するとされます。そして、原因がそうであるならば、結果として生じる感覚もまた「客観的に」存在するのだと考えることができます。これによって人間の感覚も「客観的に」扱うことができるようになります。心理学という学問はこのような前提からスタートしました。

 

「部分」が集まって「全体」になるのではない

 ところが、メルロ=ポンティは上記の考え方を批判します。何がおかしいかというと、「客観的世界」の存在を無条件の前提としている点がおかしいというのです。別に「世界が存在しない」などと言っているのではなく——哲学というものにそういう屁理屈のイメージを持っている方もおられるでしょうが——「客観的世界という一つの正しい世界がある」とする世界観が、どうして無条件の前提だと言えるのか、と疑っているのです。

 メルロ=ポンティによれば、世界は「部分」が集まって「全体」になったようなものではありません。少なくとも、人間にとって世界とはそのように現れてくるものではないのです。

 そうではなく、「全体」が先にあります。もう少し正確に言うと、全体と部分との関係性、つまり「布置」が先にあると彼は言います。そして「布置」によって部分の「意味」が決まる。すなわち、われわれはまず布置を認識し(われわれの前に世界がそのように現れ)、布置によって全体から部分へと意味が「配分」される。——と、いうのです。

 布置が最初にあると考えれば、「単純な感覚」という概念はもはや成り立ちません。どのような単純な感覚(部分)でも、全体との関係性によって必ず「意味」を帯びるからです。メルロ=ポンティはこれを「意味が分泌される」と表現しています。

 同様にして、「条件が同じなら常に同じ感覚が生まれる」という考えも成り立たなくなります。なぜならば、厳密に言えば「完全に同じ条件」は二度と揃わないからです。部分はその都度、全体との異なった関係性の中に置かれています。つまり、その都度、異なった「布置」の中に置かれています。であれば、部分が持つ意味、あるいは部分から生じる感覚も、必ず異なったものになるはずです。

 

われわれと世界との間には「帳」が下りている

 にもかかわらず、われわれは上記のような「客観的世界」の概念を前提としてものを考えています。

 メルロ=ポンティに言わせれば、そもそも「客観的世界」とは経験できるものではありません。経験から生まれる世界観ではあるかもしれませんが、われわれが「直接」経験したものではないのです。それはわれわれの頭の中だけにあります。

 経験できないはずのものなのに、われわれは自分の経験を解釈するのに「客観的世界」の存在を前提としています。そして、その前提を使って自分の経験を語っています。

 話が初めに戻りますが、これでは真の意味で「経験を語った」ことになりません。経験を語っているつもりで、実は自分がどのように世界を経験しているかも分からなくなっているのです。これをメルロ=ポンティは「世界との間に "帳" が下りている」と表現しています。

 この「帳」を破ることこそが詩人あるいは哲学者の仕事であるわけですが、メルロ=ポンティはどのようにしてそれを為そうしたのでしょうか。どのような道筋で「帳」の向こうに行こうとしたのでしょうか。

  少し長くなったので、続きは次回の記事でお話しすることにします。