BUHIXの日記

ニワカから成長しつつ、FC岐阜やJリーグの素晴らしさを伝えていきたいなと思います。

なかなか本のレビューが書けない言い訳と、「摘み読み」の効用について

最初に結論だけ書いとくと
  • 以前の自分は「レビューを目的に本を読む」状態になっていたと思う。
  • 今後は「目的に応じて摘み読みする」ことが増えそう。
  • だから、なかなかまとまった感想は書けないかもしれない。

 

 ブログを始めた時に「読んだ本の感想を書いたりとか(したい)」と言ったが、なかなか書けない。

 もちろん、「本格的な長い感想を書いたことがないから」というのが最も単純で最も大きな理由だ。

 ただ、それ以外に「本の読み方自体が変わったから」という理由もある。ここのところ、本を頭から終わりまで通して読むのではなく、目的に応じて摘み読みすることが増えた。だから「著者の意図を踏まえた上でのしっかりした感想」というものが書きにくい。

 摘み読みがいけないのかというと、別にいけないとは思わない。その分野についての知識を既に持っており、読む目的(≒新たに何が知りたいか)がはっきりしているのであれば、摘み読みでもいいと思う。いわゆる「本は全部読む必要はない」というやつだ。私も昔はそれを自然にやっていた。読書の習慣がない人たちでも、ネットサーフィンで沢山の記事を読む時などには自然に実践していることだと思う。

 ただ、過去何年かの私はこの技術を忘れていた気がする。「本は頭から終わりまで読む病」に罹っていたのだ。なぜそうなったのかというと——またdisってるのかと思われちゃうかな(笑)——読書メーターをやっていたせいだと思う。

 要するに、「読む目的」というものを忘れて、読メにレビューを書くことが目的になっていたのだ。本当の意味での読む目的がないから、摘み読みにならなかった(できなかった)。「頭から終わりまで読むのが当然だ、だってレビューを書くんだから」という発想しか持てなくなっていた。「頭から終わりまで読まなきゃ」という強迫的な意識に取り憑かれていた、と言ってもいい。

 もちろん「本は全部読む」という姿勢が一概に悪いとは言わない。良い面もある。例えば「感想を書くからには誤読をしない。無責任なことを書かない」という誠実さの表れだとも言える。また、読み出した本を投げ出さないための精神力がつくとも言える。

 「全部読み」そのものに本質的な問題があったわけではない。上述のように「レビューを書くのが目的になっていた」こと。本当の意味での「読む目的」を見失っていたこと。それらが問題なのだろう。

 なぜこの本を読みたいのか、自分は何を知りたいのか、というところが曖昧だから、読後に残るものが少ない。魂への残留率・定着率が低いと言えばいいのだろうか。「全部読み」はただでさえ時間がかかるのに、それに加えて読後の印象が残りにくいのでは、知識獲得の効率がますます下がる。

 ——今になって振り返ると、私はそんな二重苦に陥っていた。だからやっぱり曲がり角に来ていたというか、変化すべき時に来ていたというか、自分の読書姿勢を見直すべき時期に差し掛かっていた(いる)のだと思う。

 

というわけでまとめると

 今後は一冊の本を頭から終わりまで読むことが減りそうだ。だから、なかなかまとまった感想というものは書けないかもしれない。

 或いは、「これは摘み読みです」という旨と「読んだ目的」を明記して、気づいたことや分かったことをちょろっと書く…という形で感想を残していこうか。そこのところはまだ思案中である。

 

「目的化」についてちょっとだけメモしとくと 

 このブログもそのうち「長文を書くことが目的化する」と思う。いや、もうしているか(笑)。ただし、それは「レビューを目的に本を読む」という状態になるよりは健全なことだと思っている。手段と目的の乖離度が低いというか。文章力の訓練、長文によるアウトプットの訓練は、ブログ開設の目的に元々含まれていることだ。

 

(この記事にはもともと「読書の感想について」というボンヤリしたタイトルが付いていましたが、改題しました)